Netflix『アイリーン:シリアルキラーの数奇な人生』実話と真実|怪物はこうして生まれた

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Netflix『アイリーン:シリアルキラーの数奇な人生』レビュー

イントロダクション

“数少ない女性のシリアルキラー”として名指しされてきたアイリーン・ウォーノス。Netflixドキュメンタリー『アイリーン:シリアルキラーの数奇な人生(原題:Aileen: Queen of the Serial Killers)』は、虐待に満ちた幼少期から死刑囚監房での告白までを一次資料と関係者証言で再検証し、「怪物」はいかに“作られた”のかを問い直します。BBC Studios Documentary UnitとNBC News Studiosの共同製作、監督はエミリー・ターナー。2025年10月30日よりNetflixで配信開始。

作品情報

  • タイトル:アイリーン:シリアルキラーの数奇な人生(Aileen: Queen of the Serial Killers)
  • 形式:ドキュメンタリー映画 / 102分 / 16+
  • 監督:エミリー・ターナー
  • 製作:BBC Studios Documentary Unit × NBC News Studios
  • 配信:Netflix(日本配信開始:2025年10月30日)
  • ジャンル:伝記・実録犯罪・法廷ドキュメンタリー

あらすじ

ミシガン州ロチェスターに1956年に生まれた Aileen Wuornos は、幼少期から家庭内での虐待、父の不在、母の放棄、よき養育環境の欠如といった「守られなかった人生」のまっただ中で育ちます。
やがて10代で家を出、フロリダ州へと流れ着いた彼女は、路上生活や売春、アルコール依存など社会の底辺に留まりながら、「生き延びるための選択」を強いられていきます。

1989年から1990年にかけて、フロリダ州中央部の高速道路沿いやトラックストップで、40代〜60代の男性複数人が銃撃され殺害されるという連続殺人事件が発生します。彼らは、売春の客であった者も少なくなく、被害者の車両が現場近くにあったり、後に被害者の持ち物が質屋に持ち込まれていたりするなど、捜査の手が徐々にウォーノスに向かっていきます。

1991年1月、ウォーノスは武装隠匿の容疑で逮捕され、その後の捜査で複数の殺人への関与が浮上。彼女本人は、少なくとも一部の殺害について「自衛で撃った」と主張しました。特に最初の被害者である51歳の男性リチャード・マロリー(Richard Mallory)については、マロリーが性的暴行を企てたために抵抗し、射殺に至ったという供述がなされました。

しかし、その後の供述や法廷記録には矛盾も多く、ウォーノス自身も「嘘をついていた」と発言した場面も確認されています。
本ドキュメンタリーでは、この「本当の動機」「真実の自分」という問いが繰り返し浮かび上がります。監房インタビューやアーカイブ映像を通じて、彼女の言葉の裏と表、メディアが作り上げた“怪物としてのウォーノス”像と、彼女自身が強く感じていた「誰かに見て欲しい」「声をあげたい」という渇望が交錯します。

物語が進むにつれ、視聴者はただ「一人の女性連続殺人犯」の足跡を辿るだけでなく、その背後にある「構造的な暴力」「社会の見落とし」「性的マイノリティ/売春婦という立場からの視線」「メディアが望む物語枠」など、彼女を“作った”とも言える環境に目を向けさせられます。

ラストでは、ウォーノス自身が「私は“シリアルキラー”なんかじゃない」と語る場面が映し出され、“怪物”というレッテルでは説明できない“混沌”と“矛盾”を観る者に突きつけます。監督の言葉を借りれば、「彼女が作られた」という視点を持つことで、恐怖と同時にどこか冷たい余白が生まれます。


このように、単なる「犯人と罪」の物語ではなく、「その前の人生」「その後の言葉」「そして社会との関係性」までを整理しつつ、観る者に問いを投げかける作品です。

実話の考察(何が“真実”なのか)

  • 被害者は7名、動機は揺れる:ウォーノスは7件の殺害が関連づけられ、裁判では一部で有罪・死刑判決。彼女は一貫して“強姦されかけたための正当防衛”を主張する場面がある一方、供述の矛盾や「嘘をついた」旨の発言も残る——本作はその“揺れ”自体を素材にしています。
  • “生まれた怪物”ではなく“作られた怪物”:監督は貧困、児童期トラウマ、暴力と搾取の連鎖、メディアの消費欲求が複合的に彼女像を形づくったと示唆。BBC×NBC共同制作ならではの報道アーカイブの厚みが、この“構造的暴力”の視点を下支えします。
  • 新規性:既存の名作ドキュメンタリー(例:2003年のニック・ブルームフィールド作)以後もなお、未公開・希少素材や広範な関係者証言を束ね、事件像をアップデート。近年の検証記事・レビューも、“既知の事件に新しい角度を与えた”と評価しています。

私の感想

“事実の断片”が積み上がるほど、ラベルは静かに剝がれていく——このドキュメンタリーを観て、まずそう感じました。
報道や映画がつくりあげてきた「女性版テッド・バンディ」「生まれながらの怪物」といったイメージ。その表層が、彼女自身の言葉と、沈黙の間(ま)によって次第に崩れていくのです。

監督の構成は非常に慎重で、観る者に“判断”を委ねる距離感が秀逸でした。加害者としてのアイリーンを単純化せず、同時に彼女の悲劇性に寄り添いすぎない。まるで、氷の上を歩くような絶妙なバランス感覚。とくに監房インタビューのシーンは圧巻で、彼女の声がまるで心の奥底から滲み出るように響いていました。そこにあるのは、自己正当化や嘘、本音や後悔といった要素が入り混じった“人間の断片”。その曖昧さがリアルで、安易な同情や断罪を拒む編集の力を感じました。

興味深かったのは、彼女が“強さ”を装いながら、同時にどこまでも脆い姿を見せていたこと。カメラの前で涙を見せる瞬間がある一方で、次の場面では怒りと皮肉で自分を守る。彼女にとって「演じること」は生き延びる術であり、その延長線上に“殺人”があったようにも思えます。誰かに愛されたかった、誰かに認められたかった──その欲求が、歪んだ形で現実化してしまった人生。そこにこそ、彼女の“悲劇の核心”があるのかもしれません。

本作は、犯罪を描きながらも“社会を映す鏡”になっています。貧困、虐待、性的搾取、そして社会の無関心。そうした構造的な要因がどのように一人の女性を追い詰め、“加害者”を生み出したのか。つまり、彼女は「モンスターである前に、社会が見捨てた人間」だったのではないかと考えさせられます。この視点を提示したこと自体、本作の最大の価値と言ってもいいでしょう。

一方で、被害者たちの人生や、その家族の視点はもう少し丁寧に掘り下げてほしかったとも感じました。彼らの存在がぼやけてしまうことで、物語全体が“彼女の物語”に偏って見える瞬間もあるからです。ただ、102分という枠の中で、加害者・被害者・社会を三層構造で描こうとするのは容易ではない。それでも、この作品はその限界の中で、ギリギリのところまで真実に迫ろうとしていました。

観終わったあと、私はただ「怖い」とは思いませんでした。むしろ、胸の奥に冷たい沈黙のような余韻が残ったのです。
それは「彼女の罪」そのものよりも、「彼女を作った社会」への問いかけのようでした。
この世界では、見えない暴力や絶望の連鎖が今も続いている。もしアイリーンが別の場所、別の時代に生まれていたら——彼女は“普通の人生”を歩めたのではないか。そんな仮定が、いつまでも頭から離れませんでした。

この作品を観終えたあと、自分の中にある“善悪の境界線”が、ほんの少しだけ曖昧になった気がしました。
その揺らぎこそが、この映画の本当の価値なのだと思います。

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