Netflix映画『フランケンシュタイン』レビュー
イントロダクション
幻想的で耽美な世界観を得意とする Guillermo del Toro が、原作 Frankenstein; or, The Modern Prometheus(Mary Shelley 著)を新たに映像化した大型作品。2025年11月7日より Netflix にて配信開始されたこの映画は、科学と生命、創造と破壊というテーマを、ゴシック様式の美術と濃厚なドラマ性を伴って再構築しています。
監督自身が「子どもの頃から夢見てきたプロジェクト」と語るこの作品は、単なるホラー映画ではなく、むしろ「感情的」「叙情的」な物語としての怪物と創造者の関係に重きを置いています
作品情報
- タイトル:『Frankenstein』(2025年版)
- 監督/脚本:Guillermo del Toro
- 原作:Mary Shelley『Frankenstein; or, The Modern Prometheus』(1818)
- 出演:
- Oscar Isaac(ヴィクター・フランケンシュタイン役)
- Jacob Elordi(クリーチャー役)
- Mia Goth(エリザベス役)
- ほか、 Charles Dance、 Christoph Waltz らも出演。
- 配信プラットフォーム:Netflix(グローバル配信)
- 公開および配信:第82回ヴェネチア国際映画祭で初上映、限定劇場公開の後Netflixにて配信開始。
キャスト紹介
・ヴィクター・フランケンシュタイン(Oscar Isaac):野心的かつ科学に没入する外科医。生命を超越しようとする彼の傲慢さと苦悩を、Isaac自身が「自分は正しいと信じているが、どこかで壊れている」と語っています。
・クリーチャー(Jacob Elordi):ヴィクターによって創造された存在。演じるElordiは「純粋さと痛みを同居させる」役作りをしており、監督が「この目を持っていることが重要だった」と語るほど、目の演技に意味を持たせています。
・エリザベス(Mia Goth):ヴィクターの幼なじみかつ婚約者的立場の女性。創造と破壊の狭間で揺れるヴィクターと、被造物に寄り添おうとする彼女の視点がドラマに深みを与えています。
他に、ヴィクターの父親役にCharles Dance、資金提供者役にChristoph Waltzら豪華キャストが揃っています。
あらすじ
物語は、北極圏の流氷に閉じ込められた探査船に、怪我を負った男――ヴィクター・フランケンシュタイン(演:Oscar Isaac)――が救い上げられるところから始まります。彼は「僕が作ったものが今も生きていて、あの氷の下で追ってくる」といった混乱した語りを船員たちに聞かせる中、凄まじい力を持つ “被造物” が船を襲う。
そこから物語は過去へと遡り、ヴィクターの幼少期、彼の家族、生まれ育った環境、そして「死を打ち破る」ことを目指す彼の研究の始まりへと移ります。幼いヴィクターは、母を難産で失い、弟ウィリアム(ウィリアム・フランケンシュタイン)は父親の偏愛を一身に受ける存在──そんな背景が、彼の内に渦巻く「勝ちたい/超えたい」という思いを生み出していきます。
ヴィクターはやがて医学の世界で頭角を現し、「死んだ身体に命を与える」というタブーに挑む実験へと踏み出します。人体の断片と電気、科学と信仰の境界を越えるその旅路には、歓喜と恐怖、創造の誓いと後悔が交錯していくのです。
彼がついに“あれ”を創り出したとき、世界は静かに、しかし確実に変わります。被造物――クリーチャー(演:Jacob Elordi)――はただの怪物ではありません。身体は強く、再生し、恐るべき力を秘めていながらも、「なぜ創られたのか」「私は何者か」という問いとともに世界を見つめています。
そして、物語はクリーチャーの視点にも深く寄り添います。ヴィクターが造った者として、拒絶され、孤独を味わい、怒りを抱き、同時に「愛されたい」「理解されたい」という切実さを抱えている。その叫びが、怪物をただ恐怖の対象にとどめず、一個の“存在”として私たちの前に提示されます。
やがて二人の創造主と被造物の関係は、追いつ追われつの構図へ。氷海、砕ける船、逃亡、対峙… ヴィクターの傲慢さが招いた破滅、クリーチャーの悲劇が導く結末。そして問いが残ります――「本当の怪物は誰か?」。創った者か、創られた者か、あるいはその間にある“人”の弱さか。
私の感想
ギレルモ・デル・トロ監督らしい“静かな狂気”が息づく作品でした。ホラーというよりは、むしろ人間ドラマに近い。
生命を創るという禁忌に踏み込んだ男と、創られた存在。その二人の視線が交わるたびに、どちらが“怪物”なのか分からなくなる――そんな感覚に何度も襲われました。
オスカー・アイザック演じるヴィクターは、ただの天才ではなく、愛に飢えた人間として描かれています。母を失ったトラウマ、孤独、承認欲求。
「死を超える」という目標は崇高に見えて、実は“満たされない心の穴”を埋めるための衝動だったようにも感じました。
そして、その衝動が“創造”という名の暴走に変わっていく過程は、痛々しいほどリアルです。
一方で、ジェイコブ・エロルディ演じるクリーチャーが本作の核心でした。
彼は怪物ではなく、むしろ“無垢な存在”。
自分がなぜ生まれ、なぜ拒絶されるのかを知ろうとする姿は、まるで生まれたての子どもが世界に戸惑うようでもありました。
デル・トロ監督は、恐怖よりも“哀しみ”を描く監督ですが、この映画ではその特徴が極まっています。
クリーチャーが雪の中で空を見上げるシーンでは、言葉にならない孤独が胸を締めつけました。
映像美は言うまでもなく、圧巻の一言。
暗闇と光、死と生命、冷たさと温かさ――その対比が絵画のように美しく、音楽もまた静かに心を揺らします。
特に北極でのラスト、静寂の中で二人の呼吸だけが響く場面には、言葉以上の“赦し”と“哀しみ”がありました。
観終わったあと、私は「人を創る」という行為の裏にある“責任”や“孤独”について考えさせられました。
この物語の本当の恐怖は、怪物の姿ではなく、心の奥に潜む「人間の傲慢さ」そのもの。
そして同時に、それを描く監督の“人間への優しさ”を感じられる作品でもありました。
結論として――『フランケンシュタイン』は、血と稲妻の物語ではなく、「理解されたい」と願う二つの魂の悲劇です。
静かに、でも確かに心に残る一本でした。
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