映画『怒り』レビュー
イントロダクション
吉田修一の著書を、「悪人」で高い評価を得た李相日監督が再び映画化。東京・八王子で発生した残酷な殺人事件──現場に被害者の血で「怒」と書かれ、顔を整形して逃亡した犯人。1年後、千葉、東京、沖縄にそれぞれ“前歴不明の男”が現れ、疑いと信頼が交錯する群像ミステリーが静かに動き出します。
作品情報
- タイトル:怒り
- 公開日:2016年9月17日
- 上映時間:142分
- 監督・脚本:李相日
- 原作:吉田修一『怒り』
- 音楽:坂本龍一
- 配給:東宝
- ジャンル:群像サスペンス/ヒューマンドラマ
- 出演:渡辺謙、宮崎あおい、松山ケンイチ、妻夫木聡、綾野剛、広瀬すず、森山未來 ほか
キャスト紹介
- 千葉編
- 渡辺謙 … 槙洋平(漁港で暮らす父)
- 宮崎あおい … 槙愛子(洋平の娘)
- 松山ケンイチ … 田代哲也(前歴不詳の青年)
- 東京編
- 妻夫木聡 … 藤田優馬(会社員)
- 綾野剛 … 大西直人(優馬の恋人?)
- 沖縄編
- 広瀬すず … 小宮山泉(高校生)
- 森山未來 … 田中信吾(無人島に現れる青年)
- その他の出演者
- ピエール瀧(刑事・南條)
- 三浦貴大(刑事・北見壮介) 他
あらすじ(ネタバレ注意)
最初に映し出されるのは、東京・八王子の静かな住宅地で起きた夫婦殺害。密室に近い蒸し風呂のような部屋、壁には被害者の血で記された一文字――「怒」。捜査に当たるのは南條(ピエール瀧)と北見(三浦貴大)。やがて犯人は整形で顔を変え逃亡した可能性が高いとされ、未解決のまま一年が過ぎる。ここから物語は“千葉”“東京”“沖縄”の三つの線に分かれ、**「あの人は犯人かもしれない」**という予感がそれぞれの生活を軋ませていく。
千葉編:父の疑念と、娘の「信じたい」
千葉の漁港で働く槙洋平(渡辺謙)は、行方知れずだった娘・愛子(宮崎あおい)を東京から連れ戻したばかり。愛子は東京での“見せられない”時間の傷を抱え帰郷し、そこへ田代哲也(松山ケンイチ)という新顔が漁協に現れる。寡黙で手を抜かない男。互いの孤独が引き合うように、愛子と田代は距離を詰め、同棲を決める。だがある日、テレビの整形後の犯人の似顔情報を見た洋平は戦慄する――田代の“影”が、報道される特徴に重なって見えるのだ。「本当に、あいつは誰なんだ?」 洋平の胸に小さな棘が刺さる。
不安はやがて生活を侵食する。田代が“偽名”を使っていると知れた瞬間、針が振り切れたように疑念は膨張し、愛子は震える手で警察に連絡する。しかし、指紋鑑定の結果、田代は“犯人ではない”と判明。警官の背中が去ったあとに残るのは、愛子の「信じ切れなかった」という自己嫌悪と、洋平の「守るつもりが疑ってしまった」という悔い。しばらく姿を消した田代から電話が鳴り、洋平は絞り出す――「戻ってこい。お前はよくやってる」。愛子は泣き笑いの顔で彼を迎えに行く。信頼とは、過去を帳消しにする魔法ではなく、疑ってしまった後にもう一度差し出す手なのだと、千葉の海風が教える。
東京編:愛と猜疑の距離
広告会社に勤める藤田優馬(妻夫木聡)は、ゲイサウナで出会った大西直人(綾野剛)を家に招き、やがて一緒に暮らし始める。直人は多くを語らないが、家の片隅を整え、末期に近い優馬の母を気づかい、静かに「いる」。二人の呼吸が揃い始めた頃、テレビの八王子事件の続報が流れる。「整形」「手配写真」「頬のホクロ」といった断片が優馬の不安を連鎖させ、心の奥で“直人=犯人かも”という仮説が膨張する。些細な失せ物や、直人が知らない女性(のちに“薫”と判明)と会っていた光景が、その仮説を補強するように見えてしまう――そして、優馬は問うてしまう。「まさかお前、犯人じゃないよな」。翌朝、直人は消えた。
ほどなくして警察から電話が入る。「大西直人さんをご存じですか」。優馬はパニックのまま**「知らない」**と言い、直人の痕跡を部屋から消す。後日、あのカフェで優馬は女性・**薫(高畑充希)を見つけ、真相を知る。直人は彼女と同じ施設で育った“家族のような存在”で、生まれつき心臓疾患を抱えていた。優馬に疑われたのち、直人は公園で倒れ、そのまま帰らぬ人に。警察からの電話は、その身元確認だった――。街のざわめきの中で、優馬の目から涙が止めどなく溢れる。信じられなかった後悔は、出会いの一つ一つを反芻させる。「一緒の墓に入るか?」**と冗談めかして交わした言葉の温度まで、手に取るように。
沖縄編:沈黙と爆裂
母と移り住んだ女子高生・泉(広瀬すず)は、無人島で田中信吾(森山未來)と出会う。陽射しに焼けた彼は、「ここに俺がいることは内緒」とだけ言い、島影の廃屋に消える。地元の少年辰哉(佐久本宝)は泉に好意を抱き、三人はゆるく交わるが、ある夜、那覇の街で事件が起きる。酔ってはぐれた泉は米兵二人に襲われ、激しくレイプされる。辰哉は見ていながら怖くて動けなかった。泉は**「誰にも言わないで」**とだけ告げ、二人の世界は音のない海に沈む。
その後、辰哉は田中に仕事を世話し、三人の距離を**“日常”の形に戻そうともがく。しかし、田中はときに抑えきれない怒りを露わにし、民宿で暴れるなど不穏な兆しを見せる。ある朝、辰哉が無人島に渡ると、廃屋の壁に「怒」の文字が刻まれ、田中は頬のホクロをハサミで抉ろうとしていた。「あの夜、俺は見てた。知ってる女が“やられてる”のを――」と告げ、辰哉の心をヘドロのように汚す。「嘘だと言ってくれ」。返らない言葉。辰哉の中で何かが爆ぜ**、彼はハサミを田中の腹へ。島風に混じる絶叫。沈黙の共犯は、一閃の“怒り”となって彼の手を動かしてしまう。
余韻:犯人探しよりも手前にあるもの
三つの線は緩やかに接続されながら、それぞれ取り返しのつかない傷を残す。千葉では疑いの後にもう一度手を握ることの重さが、東京では**「信じたい」と「怖い」が同居する人間の弱さが、沖縄では“見ていたのに、何もしなかった”沈黙が。八王子の血文字「怒」は、誰かへの憎悪というより――“自分自身”に刻み付ける、どうにもならない衝動の痕跡**だったのではないか、と観客の胸に残る。
私の感想
『国宝』を観て、李相日監督の描く“人の心の奥底”にズシンと来てしまったので、その流れで『怒り』に手を伸ばしました。やっぱりこの監督、人物の心情をえぐる描写がすごい。どこまでもリアルで、どこまでも不安で、見終わったあとに簡単に立ち上がれないような余韻を残してくるんですよね。
この映画の肝はやっぱり「信じたいのに、疑ってしまう」という人間の弱さだと思います。千葉の父と娘の関係、東京での恋人同士の関係、沖縄の若者たちの関係――全部違う舞台なのに、どれも結局は「相手を信じられるかどうか」に行き着く。人って、“信じる”って言葉を簡単に口にするけど、実際には過去や傷、世間のニュースや思い込みが邪魔して、素直に信じきれない。そこがリアル過ぎて胸が痛くなりました。
特に東京編は、観ていて心がえぐられる。妻夫木聡と綾野剛の距離感、優しくて穏やかな時間が流れているのに、ふとした瞬間に「もしかして」という疑念が忍び込む。あの緊張感って、多かれ少なかれ私たちの人間関係にも潜んでると思うんですよ。親しい人ほど、ふと疑ってしまったり、信じきれずに心のどこかで距離を取ってしまったり。…それが結果的に取り返しのつかない別れに繋がるんだから、なおさら刺さります。
沖縄編も衝撃でした。広瀬すずの瑞々しさの裏にある暴力の描写、そして森山未來の存在感。あの“何かを抱えてるけど、言葉にしない男”の不気味さと哀しさ。ラストに爆発する「怒り」は、彼個人のものでもあり、社会の歪みや見て見ぬふりをした周囲の沈黙でもある。見ている自分も、あの場で「辰哉」と同じように動けなかったかもしれないと思うと、ゾッとするんです。
そして千葉編。渡辺謙の父親としてのまなざしが、静かだけど一番ズシンと来ました。愛娘を守りたいのに、同時に「こいつは大丈夫なのか」と疑ってしまう。信じたい気持ちと疑う気持ちが同時に存在する親心のリアルさ。指紋鑑定で白だと分かった瞬間の安堵と、同時に「疑ってしまった」という罪悪感の残り方――あれは本当に心をえぐります。
全体を通して思ったのは、「怒り」というタイトルがただの殺意や暴力の表現じゃなくて、信じられなかった自分への怒りや、人間を信じきれない社会への怒りでもあるということ。結局、真犯人は物語の中心から遠ざかっていき、残るのは“信じる”ことができなかった人たちの悔恨や孤独。そこがすごくシリアスで、でも人間らしい。
『国宝』で感じた“人間のどうしようもなさを照らす視線”が、『怒り』にも濃く流れていて、監督繋がりで観て正解だったなと思います。重いテーマなのに、観終わったあとに「生きるってこういうことかもしれない」と、自分の人間関係まで振り返らされるような作品でした。
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