イントロダクション
『沈黙 -サイレンス-』(2016年)は、マーティン・スコセッシ監督による歴史的叙事詩であり、遠藤周作氏の小説『沈黙』を原作としています。この映画は17世紀の日本を舞台に、信仰、疑念、そして迫害のテーマを深く掘り下げています。スコセッシはこのプロジェクトに25年以上取り組み、非常に情感的で精神的な作品を完成させました。映画は批評家から高く評価された一方で、興行的には不振に終わり、5000万ドルの製作費に対して2200万ドルの収益を上げるに留まりました。
キャスト情報
- アンドリュー・ガーフィールド(セバスティアン・ロドリゴ役): 信仰と葛藤の中で揺れるイエズス会士を熱演。
- アダム・ドライバー(フランシスコ・ガルペ役): ロドリゴ神父と共に日本で信仰を守るために奮闘するもう一人の神父。
- リーアム・ニーソン(クリストヴァン・フェレイラ役): 日本で信仰を棄てた師匠役。
- 窪塚洋介(キチジロー役): 裏切りと贖罪を繰り返す複雑なキャラクター。
- オガタ・イッセイ(井上政重役): キリスト教排除を推進する冷徹な将軍側の人物。
- 浅野忠信(通訳者役): ロドリゴと日本の役人の間を取り持つ通訳。冷静かつ客観的に状況を見つめる役割を果たしています。
あらすじ※ネタバレあり
17世紀、日本ではキリスト教徒が激しい迫害を受けていました。イエズス会士のロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ神父(アダム・ドライバー)は、かつての師であるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が日本で信仰を捨てたという知らせを受け、その真偽を確かめるために極東へ旅立ちます。
日本に到着した二人は、隠れキリシタンたちが密かに信仰を守り続けている村にたどり着きますが、彼らも迫害の恐怖に脅かされています。幕府の「踏み絵」という残酷な方法により、キリストの姿が彫られた像を踏むことで信仰を放棄させ、踏むことを拒否した者は拷問にかけられます。信者たちは、踏むことが神への裏切りと見なされる一方で、踏むことで命を救うことができるという葛藤に苦しみます。
ロドリゴ神父は、日本の役人である井上政重(オガタ・イッセイ)に捕まり、数々の残虐な拷問を目の当たりにします。彼は、キリスト教徒たちが彼の選択によって命を失うのを見ながら、自らの信仰と人間性との間で揺れ動きます。信者たちは踏み絵を強いられ、彼の目の前で次々と命を落としますが、ロドリゴは自らの信仰を守り続けようとします。しかし、フェレイラ神父との再会により、彼は大きな転機を迎えます。
フェレイラは、自らの信仰を棄てることで日本人信者たちを救う道を選び、日本社会に順応していました。彼は、キリスト教が日本の文化に根付くことは不可能であると考えるようになり、ロドリゴに対しても同じ選択をするよう促します。ロドリゴは、信仰を守り続けることで人々を苦しめるのか、それとも信仰を捨てて彼らを救うのかという、極限の選択を迫られます。彼の心は揺れ動き、最終的には神からの「沈黙」の中で、踏み絵を踏むという決断を下します。
映画の終盤では、ロドリゴは信仰を棄てたにもかかわらず、心の中ではキリスト教を密かに信じ続けていたことが示されます。日本での長い生活を終えた後、彼の死後、遺体には彼が隠し持っていた小さな十字架が見つかり、彼の内なる信仰が最後まで揺らがなかったことが暗示されています。
評価
感想
この映画は、観終わった後もずっと心に引っかかる作品でした。正直なところ、見ている間は苦しい場面が多くて、これ、本当に最後まで観られるかな?と思ったほど。迫害の残酷さが描かれているシーンは見ていてつらいし、神父たちが踏み絵を前に悩む姿は本当に心に刺さります。
アンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴが、自分の信仰と人々の命の間で揺れる姿は、「自分だったらどうするんだろう?」と考えさせられました。信仰って、頭で考えるだけじゃなくて、こんな極限状況で試されるものなんだな、と改めて感じました。
特に印象に残ったのは、映画の最後の方で、ロドリゴが神の声を聞くシーン。ずっと「神は沈黙している」と思い込んでいたけど、実は神はずっと自分と共にあったという、その気づきが彼を救うんですよね。ここまで来ると、信仰ってなんだろうっていう哲学的な問いにぶち当たるんですけど、映画自体が答えを出すわけじゃないんです。だからこそ、観た後も考え続けちゃうんですよね。
この映画は、いわゆる「楽しむ」映画ではないけど、すごく考えさせられるし、長く記憶に残る映画です。スコセッシ監督の作品らしく、映像も綺麗だし、静けさの中で感じる迫力もあって、観る価値は間違いなくあると思います。
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